本書の編者・吉村正は、小学校を卒業後、地元の郵便局で働きながら早稲田中学講義録によって中学卒業と同等の資格を得て上京、早稲田大学高等予科に入学、首席で卒業、特待生として大学部に進む。大学院に進学後、自分が学んだ中学講義録の編輯に携わり、読者からの質疑に答えるようになる。そして、その大部分が成功法、立身の手段に関するものであることから、「少くとも、中学講義録購読者諸君に適応しい程度の立身法は、全部之れを網羅して、是非諸君の参考に供し度い」と考え、本書を編纂、出版、巻頭には「此の書を世の恵まれざる独学の青年に捧ぐ」と記している。吉村、弱冠24歳の時である。
第一篇「検定試験―独学で学校卒業生と同等の資格を得る道―」では、専門学校入学者検定試験(専検)など10種類の試験内容を解説、第二篇「学校―官費、無学歴で入れる各種専門学校―」では、陸・海軍学校、官庁学校など12校を紹介、さらに、第三篇「独学と苦学」、第四篇「独学受験記」、第五篇「試験問題」と続く。今も書店の資格・検定コーナーに並ぶ独学者向けのガイドブックの「はしり」といえる。
吉村は、1932年に早稲田大学講師となり、38年には教授に昇任、終戦後の46年7月、島田孝一第6代総長の任命により、常務理事(3名のうちの一人)となる。そして、同年12月には、早稲田大学のあり方を多角的に審議するために設置された企画委員会の委員長に就任する。当時の『早稲田大学新聞』は、「島田新総長をはじめ、理事六氏がその経歴からいっても、学校行政に於て全く新しい人々であり、なかでも吉村理事の如き、年齢的[46歳]にも新進気鋭の教授であって、少壮教授層のトップを切って就任したことは、停滞眠るが如き状態にあった学園に清新溌剌とした空気を注入したものとして注目すべきである」と評している(『早稲田大学百年史』第4巻、431頁)。その第1回(臨時)企画委員会では、通信教育が話題として取り上げられている。
戦後、通信教育が正規の大学教育課程として制度化され、慶應をはじめとする有力私大が乗り出す中、なぜ、早稲田はこれに参入しなかったのか。これについて、『早稲田大学百年史』は、この委員会の席上、吉村委員長が、「通信教育はうっかりすると失敗する公算が多い。自分の知るところによると、一年半終了の講義録ですら、最後まで講読した率、つまり継続率は僅かに10パーセントぐらいのものであった」と述べ、また、「『実施となれば慶應と競争と言うことになるだろう』との危惧があったのかもしれない」と記している。そして、「新制大学発足時の学苑としては、夜間学部の開設と通信教育の復活とは、二者択一の問題であり、手持ち教職員から見ても、資力から見ても、両者の同時実施は不可能と言わざるを得なかった。学苑が選んだのは前者であったが、その選択が最善であったか否かの判断は、甚だ困難の一語に尽きるであろう」と含みを持たせている(『早稲田大学百年史』第4巻、943頁)。早稲田が大学通信教育に参入しなかったのは、吉村の意向が大きかったようである。早稲田が大学通信教育課程「eスクール」を開設するのは、それから半世紀以上が経った2003年である。
ところで、吉村は、1956年から62年までの3期、第一政治経済学部長を務めているが、その間、58年と62年の2回、総長選に出馬し、いずれも次点で落選している。それもあって、東海大学政治経済学部の創設に参画し、66年に早稲田大学を辞任、東海大学に移ることになる。教え子の村田克巳は、「吉村先生は早大総長選挙に敗れた口惜しさを隠されたことはなかった。負けず嫌いの先生のことで言葉のはしばしから感じとられた。東海大学の政経学部長になられた先生の想いは『早稲田に負けてたまるか』という激しい反撥だったと思う」と記している(『行動科学研究』Vol.18,No.1、35頁)。独学者・吉村正の反骨と無念、これもまた通信教育裏面史の一幕である。
なお、本書は、小川利夫・寺崎昌男監修『近代日本青年期教育叢書』第Ⅳ期・苦学・独学論 第14巻(1992年、日本図書センター)として復刻されている。
鈴木克夫(桜美林大学)
(「日本通信教育学会報」通巻66号より)