私人の手紙の交流は通常、公開されない。しかし杉田玄白と建部清庵とのこの往復書簡、4通は私蔵されなかった。当初からこの書簡は玄白の入門者のテキストとされていた。しかも「和蘭医事問答」の名で公刊された。メールによる多彩な交流や転送が容易になった今、この歴史的な質疑応答は再評価できる。
差出人・建部清庵が奥州一関から書簡(質問書)を認めたのは、1770(明和7年)閏6月のことである。杉田玄白による江戸からの回答の日付は1773(安永2年)正月である。この間、2年半程度も経っている。遅くなったのは飛脚の往来が困難であったというよりも、宛名も定まらない質問書に答えられる人物が見つからなかったからである。
建部清庵(1712~1782)は本草学者として飢餓に備え食用となる野菜や果樹を奨励していたが、医師でもあり、かねがねオランダ流医術に疑問があった。その疑問が解けないと、死んでも死にきれない熱く深い疑問があった--和蘭には内科の医者はないのか。軟膏や油薬で直す程度で和蘭医術か、和蘭医学の真実が知りたい。だが還暦を過ぎ「日暮れて道遠し」、印章を押し遺言として差し出した。
この質問書は探しあぐねた。結局、江戸に遊学する清庵の門人によって杉田玄白(1733~1817)に手渡された。受け取った玄白はいぶかしかった、見知らぬ田舎の医学生から見知らぬ医者の書簡を渡されたのだから。しかしその内容に感銘を受けた。書簡の不審は当然のことばかりだ、一面識もない方だが「実に吾党之知己、千載之奇遇」だ、と。
当時、玄白は前野良沢と中川淳庵と3人で『ターヘル・アナトミア』(解体新書 1774刊)を翻訳していた。人体に関する漢方の説明や当時の医術にいろいろ疑問があったかれらは、刑屍体の解剖に直接、立ち合い、蘭書の正しさを検証していた。そこで和蘭医学の翻訳していたのである。その頃の心境は『蘭学事始』(1815年成立)によれば、「誠に艪舵なき船の大海に乗り出だせしがごとく、茫洋として寄るべきかたなく、ただあきれにあきれて居たるまでなり」というものであった。この艱難辛苦の最中に見知らぬ医者から疑問を寄せられたのである--今の和蘭流医術は胡散臭い、本物の医学を教えてほしい、と。玄白は現状のオランダ流医術を共に憂える同志を発見した。異学と禁ぜられ幕府からお咎めの危険性もある『ターヘル・アナトミア』を翻訳する意義に納得できた。
さっそく返事(第1答書)を書いた--「建部清庵先生、和蘭外科者流之儀、御不審逐一拝見仕」とはじまる丁重で詳細な回答であった。感激した心情を率直に書き、疑問に一つひとつ回答していった。人体の構造や内科の治療法にかんするオランダの文献を紹介したし、オランダ語の読み方も具体的に紹介した。同時に、和蘭流外科医への清庵の批判が正しいことを認めつつ、しかし優れた医書もあるのでその蘭書の翻訳にあたっていることを伝えた。翻訳していた解剖図『解体約図』を添えて回答した。
宛て名のない書簡への返信に2年半もかかった理由はこのような事情があったからである。
回答をもらった清庵は4月に玄白宛書簡(第二問書)を認めた。面識もない者に玄白が教示してくれたことに驚きと感謝の気持ちで一杯だった。細大洩らさぬ具体的な答えに「年ひさしく小雨のふりつづいた空がにわかに晴れて青空が望めた」心地がした。『解体約図』を見て思わず狂呼した。「口は開いたまま合わず、舌はあがったまま下がらず」ただ涙にくれた、と心情を吐露した。さらによくぞ蘭書を翻訳してくれた、漢文で翻訳すればアジアの漢字文化圏の人びとにも読めるとその意義を高く評価した。最後に、私は老いぼれだがあなたはまだ41歳、前途洋々だから大事業は必ず成就できると励ました。末尾には、異学を研究する同志として、口さがない世間からの非難には「御賢慮」ください、との助言を添えることを忘れなかった。
1773年10月、江戸から第二答書が一関に向けられた。玄白は清庵の新たな疑問に具体的で詳しい説明を書いた。翻訳という難事についての助言に感謝しつつ、「この仕事は敵と刺し違える覚悟でやっている、たとえ一人でも敵に槍を突き刺すことができれば本望です」、勇ましい文体で和蘭流医術の誤りを正す覚悟と抱負を認めた。
じっさい翌年『解体新書』は出版される。清庵の子息は玄白の養嗣子となる。清庵の門人であった大槻玄沢は玄白の後継者となり、私塾を開き蘭学入門書を著す。玄沢の孫・大槻文彦は『言海』で近代的な日本語辞典を生む。
かくして一関から発せられた宛名なき書簡は、研究者の知的情熱を高め、蘭学・洋学の本格的研究を促し、閉鎖的な日本を開放していった。
(沼田次郎ほか校注『洋学 上』(日本思想大系64)岩波書店, 1976年所収)
(白石 克己:佛教大学)
(「日本通信教育学会報」通巻44号より)