本書は、公立通信制高校で国語科の教員として勤務した著者が2001年から2002年の出来事を切り取って、エスノグラフィー風にまとめたものである。入学式から始まり、各学期を追いながら日々の通信制高校の様子が活写されている。今まで中学や全日制高校で勤務した経験はあるが、通信制高校がはじめての著者の通信制高校での「てんやわんや」が描かれている。かなりカルチャーショックを受けたのだろうと、文面からは想像される。
「『リーン、リーン』。また電話。『あんたの職場はいつかけても話中だ』と友だちに言われるが、そう言われても仕方がないほどよく電話がかかる」という冒頭の文は、いかに電話という手段が通信制高校のなかで頻繁に使用されていたかが分かる。本の題名も「はい、こちら通信制高校です」であるし、表紙も電話の絵である。著者はひっきりなしにかかってくる電話に辟易しているが、しかし、電話のなかでの教育課題には敏感である。全日制高校から送り込まれる転編入生の対応、電話で「死にたい」と言ってくる生徒のことなど、電話は生命線である。
通信制高校のおもしろさは、多様な生徒がいることで、誰が先生か生徒か分からない場面もある。健康診断の日、ジャンパーを羽織った60歳ぐらいの男性が掲示板を見ている。遅れてきた生徒が会場を見ているのかと声をかけ、健康診断の用紙を受け取ったかと聞いたら、その男性、むっとした様子で「私は医者です」。この場面ではさすがに笑ってしまった。また、赤ん坊がいるからスクーリングに来る日を変更したいという生徒の年齢が書いてある書類を見たら、「17才」。著者は言葉に詰まる。そして、自分の時間がほしいから、「消去法ではなく、積極的に通信制高校にやって来る人は次第に増えていると思われる」とあったが、今の時点で考えると、この予想はかなり当たっている。現在、多様な生徒像はさらに多様性を増している。
「あーもう飽きた、やってもやっても減らない。もうやめた、レポートなんかもう見たくない!」というほどにレポート添削に追われながらも、著者は生徒の学習環境に気をとめる。著者の学校では通信制生徒が図書館を使えなかったらしい。その理由を事務長に尋ねたら、通信の生徒は図書費を払ってないからだと答えた。著者は怒り心頭で「学校全体を考えてこそ『事務長』だろう。全日制の生徒だけよけりゃいいのか!! 私は怒りで体が震えた」そうだ。学校図書は公費が基本だが、足りない分は私費で賄う。その私費の分の図書費を事務長は言っているのだが、公費は税金、その税金を払っているのは全日制生徒ではなく、通信制生徒が多い。働いているからだ。だから通信制生徒が図書館を使えないのは、どう見てもおかしく、著者の怒りは当然である。その後、生徒部から図書館使用を求める動きがあったが、音沙汰なし。しかし、突然、使えるようになったという。それは生徒が知り合いの議員を動かし、県議会で質問があったらしいとのことである。そこで著者はまた怒る。「現場からずっと要望しても駄目なことが議員が動くとなぜ即OKになるのか、教員にはなんともわからない」と。確かにそうだ。しかし、著者はただ怒ってばかりいるのではない、通信制高校の生徒を大切にしているからこそ怒っているのだ。それは本文のあちこちに散見される。
いつもクールだが、母親はいなく父親もいつ家に帰ってくるかわからない十代の生徒がいる。中学の頃からそんな家庭環境で、バイトで生活している。そうした生徒への著者の眼差しは暖かい。関節がこわばる病気で車椅子を使っている生徒。病気も進行している。それにもかかわらず、三角関数や『枕草子』を勉強しようとする意欲と努力に敬意を払う著者。通信制高校の教師になくてはならない「資質・能力」だ。いや、教員一般の「資質・能力」だろう。通信制高校の扉を叩く生徒たちは、さまざまな事情を抱えている。それをできるだけ受け止めようしてきた教員側の営みもまた通信制高校の歴史なのである。実際に「いつでも、どこでも、だれでも」学べる通信制高校になっていない部分は多いのだが、それを目指そうとすること、そのことが戦後すぐにはじまった通信教育の理念へと通じる。
通信制高校の生徒像は、「勤労青少年と一般成人」からは変化してきたが、通信制高校での生徒の実像こそ各時代における教育問題なのである。まさに、2000年前後の通信制高校のあり様は、中退した生徒をどうするかの時代であり、本書ではそれに多く紙幅が割かれている。
なお、本書は新刊としては手に入らない。古書としての値段の振幅は大きく、1300円の定価が1600円から9000円でネット販売されている(2017年11月)。しかし、通信制高校を研究するなら、この本はぜひ読んでほしい。当時の公立通信制高校の風景が切り絵のように浮かび上がるからだ。
(星槎大学 手島 純)
(「日本通信教育学会報」通巻49号より)