本書は長年、高校通信教育に携わった朝日稔氏の自伝である。朝日氏は戦後高校通信教育が始まった昭和23年から自身の定年までを通信制高校にて勤められ、それ以後も多様な形で高校通信教育に携わった、高校通信教育とともに生きた「通信制の神さま」とも呼ばれる方である。
本書は『私の手帖』とあるように、昭和50年代までの朝日氏の日々生きてこられた中での出来事や、想いが綿密に記された総頁数400頁を超える大作である。特に、戦後を記した第二部は高校通信教育とともに生きてこられただけあって、本書以外では知ることが難しい内容にも言及されている。
ここでは印象の残ったエピソードのうち3つに焦点を当てて簡単に紹介したい。
1.IFELでのヤング氏の講演:リポート指導とは
初期のエピソードの1つとしては、IFELの際のヤング氏の講演内容に言及があり、「いつでも、どこでも、誰れでも」を説いたことや、「リポート指導における迅速、丁寧、正確」が説かれたことに印象が残ったことが触れられている。戦後早くの時期から、このような通信制の大切さにとどまらず、リポート指導の課題がきちんと明示されていたことは印象深かったとともに、その後の通信制高校や通信制大学の課題となる事項をしっかり受け止めた朝日氏にも敬意を覚えた出来事であった。
一方で、昭和40年代に入ってからのエピソードでは、海外視察をした朝日氏が海外の通信教育を観て大量生産と感じ、「大量生産血の通わない通信教育になってはいけない」という確信を強いものにしたとも記されている。この内容を見る中で、多くの人々に教育の機会を提供する一方で「血の通った」通信教育としていくにはどうしたいいか、指導法やメディア活用も含めた現在につながる問題が潜んでいることを感じさせられた。
2.三K主義:自学自習の重視
初期から15年ほどたった昭和30年代後半においては、朝日氏は生徒に「決意・計画・継続の三K主義」を唱えて、生徒の奮起を促していたとある。また、通信制をボートに例えて自分で漕ぐことの大切さを話したとも書いている。この時期はまた企業などからの集団生が増えた時代でもあり、「自立学習」が建前かで議論が白熱したことも書かれている。そして、集団生が増えて、規制学習となろうとも、リポートの添削においては「納得するよう指導」すべきとも書かれている。
先のヤング氏の講演などを踏まえて、学習者のタイプが変わろうとも、リポートという当時の通信教育の根幹をなす部分を重視していた朝日氏の想いを感じさせられた。
3.誰のための通信教育か:新旧の通信教育観のぶつかり
昭和40年代後半の昭和48年2月12日には「誰のための通信教育か」という読売新聞の記事が紹介され、その内容は身障者の入学希望者をある学校が拒否したことへの批判記事であるが、これに関して朝日氏は「誰れのため、といわれれば勤労青少年のため、といいたくなる」と記している。当時進学率が90%近くまで来ており、生徒層が変化しつつある中で、旧来からの高校通信教育を追求する朝日氏の見解と、世相の中での通信教育観の違いが見えるエピソードの1つである。
以上3つのエピソードからは、初期の通信教育において、勤労青少年のための教育として、自学自習がいかに大切にされていたかが物語られる。翻って現在の高校通信教育、通信制高校はどうだろうか。現在の通信制高校は多様な生徒が入学し、特に若者の比率は高くなっている。通学型通信制高校も多くなり、特に私立においては自学自習の考え方が影を薄めている印象すらある。もちろん、学習者のニーズに合わせて、生徒の特性に合わせて教育が行われることは大切なことであり、メディアなどを駆使して学習の利便性や効率を上げることは大切である。だが、同時に、初期の自学自習の中で重んじられていた「決意・計画・継続」の志とその背後にある学習者を大人として(あるいは大人の手前の人間として)扱う姿勢、一人ひとりを大切にする姿勢、そういったものは今、なお注目に値すべきものであろう。
高校通信教育をもう一度捉えなおしたい、古きから通信教育を振り返りたい、そうした会員に読んでほしい一冊である。
(星槎大学大学院教育実践研究科 石原 朗子)
(「日本通信教育学会報」通巻48号より)