「大学通信教育」とは、1950(昭和25)年に正規の課程として開始されたものである。現在では「大学通信教育=私立大学」という認識が、通信教育関係者の中でも、もはや当たり前のものとなっている。
しかし戦後教育改革期には、学校教育法に基づく大学通信教育とは異なる、国立大学が実施していたもう一つの「大学通信教育」が存在していたという事実を、我々関係者は忘れてはならない。その「幻の通信教育」とも言うべき存在こそ「教育職員免許法認定通信教育」、いわゆる国立大学通信教育と呼ばれるものである。その沿革は、『岩手大学の通信教育』によると、次のように記されている。
「昭和二十二年度から六・三・三の新しい学制が実施されることになり、駐留軍総司令部民間情報教育局は、その精神を徹底させ、速やかに教育を新しい方向に切りかえるための方法のひとつとして、文部省の相談をうけ教員再教育の通信教育を行うことを承認した。(略)
昭和二十五年十月から国立大学の学芸学部、教育学部をもつている大学に一せいに通信教育部を設けられ当大学にも開設された。(略)昭和二十四年五月制定、昭和二十九年六月と大幅に教育職員免許法施行法施行規則等が改正され、現職教育実施五ヶ年の計画も本年三月で終わりを遂げることになつた。」(岩手大学長 鈴木重雄)
「大学通信教育」が担ってきた歴史的な意義や役割は、その時代ごとに変遷を辿ってきたといえるが、当時私立大学の通信教育が「教育の機会均等」を主に担っていたのだとすれば、免許法通信教育は「現職教育」や「教員養成」の一端を担っていたということが理解できる。ところがそうした点でいえば、この免許法通信教育のほかにも、大学公開講座や各都道府県教委が実施する認定講習会などの方法もあった。こうした中でなぜ、この「通信教育」という方法が、当時これほど重視されたのであろうか。実はここに、「国」が通信教育に対して密かに寄せていた期待を、見て取ることができる。
実際に、秋田大学(秋田大学教育学部創立百周年記念会編『創立百年史秋田大学教育学部』1973年10月)での記録によれば、第一次ベビーブームの年に生まれた層が小学校に入学する1953(昭和28)年に、免許法通信教育が過渡期を迎えていたことが判る。すなわち国は、予め大量の教員が必要とされる事態を見越して、通信教育の制度化を推進していたのではないか、というわけである。
そしてもう一つ、国がこの国立大学の通信教育を通じて模索していたと思える事柄がある。それは「放送利用による教育」である。主に山間僻地や離島を有する地域において、免許法通信教育の一環としての放送教育の存在が確認されている。特に北海道では、NHKとの協力を得て1951(昭和26)年から開始されており、その取り組みは私立大学の民法放送教育に7年も先駆けていることが判る。こうした背景に、教育研修所所長を経た城戸幡太郎や、放送教育・通信教育界の中心的人物で本学会初代理事長でもあった西本三十二の存在が無関係であったとは想像し難い。これらの点から見えてくるものこそ、1960年代後半にまで遡る「国家主導による通信制の大学」である「放送大学」の設置構想、まさしくその源流ではなかろうか。
そうした国の様々な期待や思惑とは裏腹に、免許法通信教育は1962(昭和37)年に終了する。末期には、この通信教育事業を「正規の通信教育」へと発展・昇華させるべく、本学会で要望書が決議され国へ提出もされたが、その要望が叶うことはなかった。こうして、本学会においてもその成立から深く関わり、初期には学会の発展を牽引した国立大学の通信教育は、もう一つの系譜である社会通信教育のみを残し、幕を降ろしたというわけである。
『岩手大学の通信教育』のまえがきには、このような記述がある。「この書が今後再開されるであらう通信教育の発展にいささかなりとも参考になるのなら幸である」と。
通信・遠隔教育の技術は、この10数年で目覚しい発展を遂げてきた。そしてeラーニングやMOOCsといった新たな教育方法・制度も充実してきた今日、国立大学に再び「通信教育」の灯火が宿る日も、決してそう遠くはないのかもしれない。
(八洲学園大学 山鹿 貴史)
(「日本通信教育学会報」通巻47号より)