資格を与えることに目的をおく教育は時代遅れ。通信教育はノン・クレジット・コースだけにすべき。日本の教育界のがんである学歴、レッテル主義と学閥の弊風を一掃し、実力主義を打ちたてよ。こうした主張が強かったものの、クレジットの現実的な必要を説く教育現場の声に押され、ノン・クレジットの栄冠は社会通信教育の頭上にのみ輝いた――。
「ノン・クレジットの栄冠」とは逆説的な言い回しに聞こえるが、そう回想したのは、文部省社会教育視学官として戦後の通信教育制度創設に関わった二宮徳馬である(『文部省認定社会通信教育 20年の歩みと将来』昭和43年)。秋田大学鉱山学部の通信教育講座も、その「栄冠」を手にした社会通信教育講座の一つである。
秋田大学鉱山学部編『通信教育十五年』によれば、昭和23年5月23日に開催された同講座の開講式に、その二宮が企画課長の福原義人とともにはるばる参列している。それだけではない。当時の文部省社会教育局は、自らの手で通信教育を経営し育て上げたいという強い希望を持ち、直轄学校の中にこの事業に参加する希望をただし求めていたというのである。浜松高等工業学校(後の静岡大学工学部)にも誘いの手を延ばしていたともある。したがって、「この事業[通信教育講座の開講]は本省の要請による委託事業であり(略)、本省において引き受け手がなく困惑していた時、一つ貴校で引受けてはくれまいかと頼まれたことについて、三分の不安の中に七分の感激を持って引受ける決心をしたのである」とわざわざ記している。国立大学唯一の通信教育誕生の真相である。ただし、それは正規の大学卒業資格が得られる「大学通信教育」とは異なり、ノン・クレジットの栄冠に輝く「社会通信教育」だったわけである。昭和24年5月の文部省設置法で大学、高校、社会通信教育が分割所管されるまで、通信教育に関する事務はすべて社会教育局が扱ってきたにもかかわらず、大学が実施する通信教育がその後二分されたのはなぜか、興味深いテーマである。
案の定、クレジットの問題は、開講以来、大きな課題として常に議論されることになる。資格が物を言う日本では、学校教育法に基づく卒業資格を与えてもらいたいと思うのは人情で、旅先で受講生やその希望者から必ず出される質問だったという。そのため、昭和25年には、文部省の許可のもと、通信教育の2年次修了者を本科(通学課程)3年次に編入させ、専門学校(旧制)を卒業させるという便法も使われた。また、昭和32年には、学校教育法による短期大学通信教育の開設も提案される。しかし、母体となるべき短期大学部がなければ通信教育単独での設立は不可能との結論に達して立消えとなる。現在とは異なり、通信教育だけの大学や短期大学は認められなかった時代である。ノン・クレジットの「社会通信教育」から正規の「大学通信教育」へのこうした切り替えの動きは、同じ社会通信教育に属する酪農学園短期大学や東京農業大学社会通信教育部などにも見られるが、いずれも実現していない。
一方、本書からは、大学通信教育との関連性を感じさせるエピソードも読み取れる。本省派遣の事務官だった富海庶務課長が慶應出身であったことから、慶應の通信教育を参考にしているのである。慶應の通信教育部長(時期から考えると、初代通信教育部長の橋本孝と思われる)をわざわざ秋田まで招いている。その影響と考えられるのが、通信教育に大きな赤字が出た場合の受け皿として外部団体である秋田鉱山専門学校通信教育協会を発足させたことである。慶應義塾が通信教育を始めるに当たり、慶應通信株式会社(現在の慶應義塾大学出版会)を設立したのと同じ理由である。もう一つは、受講生を工場、鉱山、あるいは現場ごとに組織するグループ教育である。こちらも、慶應では開設当初から「集団学習」に関する規程を設け、10名以上の学生が勉学のために組織した団体を集団学習単位として取扱っている。これが、後に「クラス」あるいは「慶友会」という学生の自治組織に発展している。
秋田鉱山専門学校の通信教育講座は、その後、鉱山学部から工学資源学部へ、そして2014年からは理工学部へと引き継がれている。また、社会通信教育協会の加盟団体としても、文部省認定第一号の地位を堅持している。本書の刊行後も、『通信教育三十年』(昭和52年)、『通信教育五十年』(平成9年)が刊行されるなど、ノン・クレジットの栄冠は今もしっかりとその頭上に輝いている。 学校教育法に基づく「大学通信教育」とは別に、大学が行なうもう一つの「通信教育」の系譜の存在を思い出させてくれる1冊である。
(鈴木 克夫 桜美林大学)
「日本通信教育学会報」(通巻42号)より